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八幡神社下馬標[はちまんじんじゃげばひょう]
分類 | 重要文化財 |
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指定別 | 県 |
所在地 | 関市武芸川町神の洞 |
所有者 | 武芸八幡宮 |
指定年月日 | 昭和36年3月6日 |
社伝によると八幡神社は養老元年(717)泰澄大師この地方に巡錫して大碓命の伝説を聞き、命を祭って八幡神社と称した。後、宇多天皇が美濃に行幸されたとき、別当神宮寺に臣下の者を留め神社に奉仕させたという。
これより武芸谷数郷の人々の崇敬を集め、観応2年(1351)森又太郎源泰朝社殿を再興し、本殿、拝殿、五重塔、鐘楼等を建立。その頃、不動を含め十二坊が存在したという。
社伝の伝えるように社有地は大変広く、鳥居から本殿に至る参道は実に約1000mに及び往時の盛観を偲ぶことが出来る。
武将の信仰も篤かったようで藤原利隆(妙椿)の禁制、土岐家の守護代藤原基就・藤原利茂の禁制を、織田信長、信忠、信孝の安堵状など現存する。
下馬標は惣門前太鼓橋を渡ったところの西側にたてられている。鑿跡の深い雄渾な書体で彫られている。刻銘は不明であるが、神社の什物調査には元禄5年(江戸時代)とある。石標の高さは1.4m、幅は0.39mである。