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田中大秀墓[たなかおおひでのはか]
分類 | 史跡 |
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指定別 | 県 |
所在地 | 高山市江名子町上使畑 |
所有者 | 荏名古史跡保存会 |
指定年月日 | 昭和31年2月24日 |
田中大秀墓は、JR高山本線高山駅の南東約2.7km、荏名神社から1kmの丘陵上に所在する。この墓所を松室岡という。大秀が生前この地を墓所に選んで自ら命名したという。墓域は上下両段でできている。上段は東西約8m、南北約10mの規模で、内に高さ約2m、直径約3.3mの盛り土があり、その前に嘉永4年(1851)田中弥兵衛寿豊の建てた標石がある。
田中大秀は、安永6年(1777)高山一之町の薬種商弥兵衛博道の三男に生まれた。享和年間(1801〜1804)、本居太平を伊勢松阪に訪ね更に京都に上って、上京中の本居宣長に入門した。文化15年(1818)隠居の後、自ら再興した荏名神社の傍らに隠棲し、国学の研究と門弟の指導に専念した。弘化4年(1847)71才で病没した。「土佐日記解」「竹取翁物語解」等の著述がある。