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災害体験談6
9月12日豪雨災害(1976年/昭和51年)
瑞穂市在住71歳男性(当時穂積町消防団長兼水防団長)
出動は県の防災情報により幹部連中が集まるということになっていたが、9月7日晩に本部を立ち上げ、9月8日には天王川の堤防法面がずれ現場へ出動した。22人駆けつけた。長良川がパンクすると思った。
9月9日本巣縦貫道が川になって流れていた。当時の町長から相談があったが、道路を通行止めする形で土嚢を積んだ。
排水機の燃料を入れるため、30分に1回は機場に入り、水替えを行いながら作業した。
墨俣との境の長良川堤防の天端にクラックが入っていた。どこで切れても不思議ではなかった。
安八が切れてからすぐに水が引き出した。
ライン下りの舟を借りて穂積町内を行き来していた。穂積町の8割が水に浸かっていた。
河川改修のおかげというのか、昔は忠節から2時間、郡上から6時間と言われていたものが、今では忠節から30分、郡上から2時間で水が来る。
出水の時は岸から見ろ。増えるときは川の真ん中がふくらんでいる。足をとられる。
本部に7、8、9、10日といたが、立って15分寝ていた。立っていても寝れるものだと思った。
水道については個人宅では使用できた。
油を運ぶときは水に浮かべて運ぶ。舟には載せない。
救助と水の確保が一番。一世帯にパン1個という状態であった。当時の町長は「まずは食料を買ってこい。配ることは後から考えればいい。」ということで、パン屋でパンを大型ダンプに積み込んで町へ持ってきた。
避難所は小学校やお寺が多かった。井戸があるところは水中ポンプがあれば問題なかった。災害時は9月であり残暑が厳しく、手でおにぎりを握るため、避難所へ来たときはおにぎりを割ると糸を引いていた。夜になって捨てに行ってきた。おかげで食中毒にならなかった。
トイレの問題はすぐ出る。当時牛牧小学校に避難しているときもバケツの水で流した。川の上でシートで囲いトイレを作るようなことも考えなければならない。
1週間くらいで何とか水は引いた。水に浸かった家具や畳は穂積町の北で燃やした。
家は壊れていないので、辛抱して、乾かすために1ヶ月くらいは杉板のまま寝泊まりしていた。縁の下には石灰をまいて消毒もした。
派出所のお巡りさんがすくんでいた。飯もほとんどなく、交替もせず警備を続けていた。
おかげで盗難は無かったと思う。
「櫓三月、竿三年」と言われるくらい竿は難しい。差すまではよいが、抜くことが大変。今は竹の竿ではだめ。ポールみたいなものを使わないとだめだ。ゴムボートも災害時は使えない。水面下が見えないため、穴があく可能性が高い。自衛隊がエンジンをかけてボートを動かしていたので、「家の壁が落ちる。おまえら補償できるか。」と言ってやめさせた。現在も消防団ではボートの練習を長良川で実施している。また、小型船舶の免許を取得するように進めている。
9.12災害で一人の人命も失うことがなかったことが本当に良かった。当時水防工法の指示する時に、上手にこなす者をうまく割り振りをした。適材適所。役割分担がされていた。(瑞穂市の課長から:団長はいつも「○○だけ気を付けろ」とひとつだけポイントを言う。団員は必ず返事をする。それが大事なことである。)
消防のOBとして、経験したことを現指揮者に伝えることがある。毎年、水防訓練時にも上のランクの者に指導したりする。