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大薮洗堰跡[おおやぶあらいぜきあと]

分類 史跡
指定別
所在地 安八郡輪之内町新河原
所有者 輪之内町
指定年月日 昭和34年3月10日

大薮洗堰跡

 大榑川は長良川から取水し、南西に流れて揖斐川こ注いでいた河川であったが、その河床は長良川よりも約2.5m低かったため、いったん出水となると長良川の水が大榑川を通って揖斐川に奔流の如く流下して、沿岸の堤を破壊し各村に甚大な被害を及ばした。この水勢を緩和するため薩摩藩のお伝い普請により全面石築の堰堤が構築された。石堤は高さ1.2m、堤敷約40m、長さ約180mの洗堰の形式であった。
附近一帯は低湿地で石材が乏しく、入手が困難であったため工事費がかさみ、責任を感じた薩摩藩士数名が、自刃して藩主に謝罪するという悲惨事も起きたといわれている。宝暦5年(1753)春にいたって、ようやく完成し、工費は5千両近くに及んだというが、同年5月の出水により堰の西岸が決壊した。
そのため、宝暦7年(1757)新たに寛延の喰違堰の上流地点に長さ78間の猿尾を築いてこれに接続し、長さ108間の新堰にする計画をして宝暦8年(1758)に完成した。以後、明治32年(1899)の大榑川締切堤の完成まで制水の役割を果たした。この締切堤の完成により大榑川の河道自体が消滅した。
平成9年度平田町、輪之内町が、地中レーダー探査や試掘によって堰の調査を実施した。その結果地中に現在も堰の跡が残っていることが確認された。