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飛騨川バス転落事故(昭和43年)
飛騨川バス転落事故(8月17日豪雨災害)(昭和43年)
観光バス2台が、集中豪雨による土石流にのまれて飛騨川へ転落。104人の生命が奪われた。
昭和43年8月18日午前2時11分、加茂郡白川町地内の国道41号での出来事である。荒れ狂う飛騨川に転落したのは、乗鞍岳の観光登山に向かい、豪雨のため登山を断念して引き返す途中の観光バス2台であった。
折から県内(奥美濃)は時間雨量149ミリという、岐阜地方気象台始まって以来の集中豪雨。転落したバスからは、わずか3人が奇跡的に助かっただけであった。一か所のバス事故で104人もの犠牲者が出たのは史上初めてのことであり、きわめて悲惨な事故となった。
被害者は乗鞍岳観光の主婦ら
被害にあった乗客は、名古屋の会社が「乗鞍雲上ファミリーパーティ」と題して募集した、北アルプス乗鞍岳観光の一行であった。
この企画には名古屋市内の主婦とその家族を中心に730人が参加、バス15台に分乗していた。計画では、夜9時30分に犬山市の成田山に集合し、乗鞍岳に向けて出発。バス内で睡眠をとり、翌日4時30分に山頂へ。ご来光をよう拝した後、夕方に名古屋に帰るという予定であった。
集中豪雨により土石流発生
当時の気象状況は、台風7号くずれの湿舌に、寒冷前線がゆっくりとした速さで南下。岐阜県中央部に達したのが17日夜20時ごろと推定されている。そのころ、郡上・益田・加茂郡内などに半径数キロといった小規模で発達した雷雲が、次々に発生し集中豪雨をもたらしたと考えられている。
現場近くの白川町三川小学校観測所では、17日23時からの1時間に100ミリの雨量を記録している。
この豪雨のため道路わきの山肌がゆるみ、岩石・土砂が、高さ100メートル、幅30メートルにわたって数か所で崩れた。そして、扇状形に国道に流れ出て、路上を乗り越え、ガードレールをへし曲げたうえ、飛騨川に落ちた。崩れた岩石・土砂の量は、推定740立方メートル、ダンプカー約250台分であったという。
事故発生3時間半後に第一報
現場には、転落したバスのほかにバス・トラック・乗用車など約30台が、前後を土石に阻まれ立ち往生していた。これらの人は、比較的安全と考えられるところに車を移動し、バスは乗客を下車させて誘導するなどし、なんとか難を逃れることができた。
事故の第一報は、転落から逃れたバスの運転手ら4人によってもたらされた。道路上にたい積した土砂を乗り越え、対岸の下山ダム事務所に急を知らせ、事務所から上麻生発電所を通じ地元の加茂警察署に連絡された。加茂警察署に連絡が入ったのは、事故発生後3時間29分後の午前5時40分ごろであった。
困難を極めた救助活動
救助活動は、地元白川町の派出所員3人と加茂警察署の4人が合流して始まった。その後加茂署隣接4署や県警機動隊員、自衛隊員、地元消防団員を中心にして救助活動が進められた。
死者・行方不明104人におよぶこの事故の遺体捜索は、捜索範囲が岐阜・愛知・三重にまたがり、延々94キロメートルにおよぶ飛騨川・木曽川水系と伊勢湾一帯というきわめて広い範囲であったこと、極度に増水した濁流であったことなどから困難をきわめた。
「岐阜県災害史」(岐阜新聞社編集)より抜粋
気象概要
昭和43(1968)年、台風7号は衰弱しながら日本海中部を毎時約50kmの速さで北東に進み17日09時には北海道西方約400kmの海上に達し、これから寒冷前線が南東に伸び秋田付近から南西に向きを変え北陸、近畿を通り九州方面に達していた。この前線は台風の東進に伴い南下し、17日朝より南の高気圧から高温、多湿な空気が前線に向かって流れ込み前線の活動は次第に活発化した。
前線の影響で岐阜県下は17日朝から所々にわか雨が降っていたが、前線の南下とともにこの線上に雷雲の発生が盛んとなり、11時から15時頃までの間に1〜2時間の強いにわか雨があったがまもなくやんだ。前線は更に南下し岐阜県中部、特に分水嶺の南側に達すると、その活動は最盛期となり雷を伴った雨は20時頃から18日早朝にかけ、益田郡南部、郡上郡南部、加茂郡、恵那郡の一部を中心にはげしく降り、特に1時間最大雨量は郡上郡美並村では114ミリ、加茂郡富加村では105ミリ、益田郡萩原町では62ミリに及び、総雨量は富加村では319ミリ、美並村では243ミリ、萩原町では250ミリに達する集中豪雨となった。
この豪雨は狭い地域に短期間の多量の雨を降らせたもので集中豪雨の典型的なものであり災害もこれらの地域で主に山くずれ、がけくずれ、家屋の浸水、流出等が各地に発生し14名の死者と26名の重軽傷者を出すに至り特に加茂郡白川町国道41号線で観光バス2台が山くずれによる土砂に流され飛騨川に転落水没し乗客104名を加え実にその行方不明と死者を合わせて118名に及ぶ人的災害が発生した。
豪雨は18日朝前線が東海道沖に南下した頃より小降りとなり、以後次第に天気は回復に向かった。
災害対策本部
県は、17日22時30分の大雨警報、洪水注意報を受信すると同時に、災害対策本部を設置し、関係職員の緊急招集を行う一方、県下各県事務所および各土木事務所に対し防災行政無線により一斉指令の上、管下各市町村の情報を収集し、被害状況の把握に努めたところ、中濃地方の被害を確認。8月18日13時30分上之保村、富加村、川辺町、白川町の4ヶ町村、続いて8月19日16時美濃加茂市に対して災害救助法を適用することと決定。
災害対策本部では災害発生と同時に本部員会議及び本部連絡員会議を重ね、災害対策が円滑に実施されるよう総合的な調整を行った。
本部長である知事は、災害状況の把握と災害に対する応急措置等指揮のため、副本部長(副知事)を災害発生と同意に現地に派遣し知事自らも8月19日災害救助法適用市町村など被災地市町村を見舞うと共に現地の実情をつぶさに調査し、必要に応じ適切な措置を講じた。
なおこの間飛騨川バス転落事故により、104名の行方不明者を出し、これの捜索には、9月15日までに36,683名の大規模な捜索隊、自衛隊、消防、警察など)を繰出し、16日から第5次捜索が1日平均250名の規模で事故発生から1ヶ月余にわたる捜索が続けられた。
被害状況
被害概要は以下のとおり。
死者 | 106人 |
---|---|
行方不明 | 12人 |
重軽傷者 | 29人 |
罹災世帯数 | 4,474世帯 |
罹災者数 | 19,202人 |
住家 |
全壊33棟、流出27棟 |
半壊74棟 | |
床上浸水877棟 | |
床下浸水3,499棟 |
自衛隊派遣状況
自衛隊の派遣状況は以下のとおり。
(1)災害復旧、給水などのために出動した部隊
部隊名 | 派遣地域 | 延べ人員 | 派遣月日 | 撤収月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
第10補給隊 | 富加村 | 69人 | 8月18日 | 8月26日 | 給水 |
第35普通科連隊 | 美濃加茂市三和 | 1,039人 | 8月20日 | 8月29日 | 道路啓開 |
第10特科連隊 | 川辺町下麻生 | 820人 | 8月20日 | 8月27日 | 同上 |
第10施設大隊 | 同上 | 104人 | 8月19日 | 8月21日 | 同上 |
同上 | 美濃加茂市三和 | 228人 | 8月24日 | 8月29日 | 同上 |
第35普通科連隊 | 白川町三川 | 440人 | 8月24日 | 8月29日 | 同上 |
同上 | 同黒川 | 273人 | 8月25日 | 8月27日 | 同上 |
第10師団司令部連絡班 | 同河岐 | 48人 | 8月25日 | 8月29日 | 指揮 |
第10補給隊 | 同上 | 15人 | 8月25日 | 8月27日 | 入浴支援 |
計 | 3,036人 |
(2)派遣部隊の指揮、連絡、調整、偵察などのために出動した部隊
部隊名 | 作業内容 | 延べ人員 | 派遣月日 | 撤収月日 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
第10師団司令部前進指揮所 | 指揮 | 152人 | 8月20日 | 8月26日 | 美濃加茂市 |
第10通信大隊 | 通信 | 91人 | 8月19日 | 8月25日 | 同上 |
第10武器隊 | 整備 | 21人 | 8月22日 | 8月24日 | 同上 |
第10衛生隊 | 衛生 | 69人 | 8月22日 | 8月26日 | 同上 |
第10通信大隊写真班 | 写真 | 10人 | 8月21日 | 8月25日 | 同上 |
第10飛行隊 | 偵察、捜索 | 24人 | 8月29日 | 8月26日 | 被災各地 |
陸上自衛隊航空学校 | 偵察、視察、輸送 | 8人 | 8月28日 | 8月18日 | 同上 |
中部方面ヘリコプター隊 | 急患、調査団、輸送 | 35人 | 8月19日 | 8月26日 | 同上 |
県庁連絡幹部 | 連絡調整 | 46人 | 8月18日 | 9月10日 | 災害対策本部詰 |
計 | 456人 |
(3)飛騨川バス転落事故による行方不明者の捜索のため出動した自衛隊
部隊名 | 出動延べ人員 | 備考 |
---|---|---|
陸上自衛隊 | 7,891人 | |
海上自衛隊 | 23人 | 水中処分隊 |
航空自衛隊 | 1,237人 | |
計 | 9,151人 |