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柿田遺跡
所在地
可児郡御嵩町顔戸(かにぐんみたけちょうごうど)、可児市柿田(かにしかきだ)
地図<外部リンク>
時代
弥生時代から近世
東西方向に長く延びる低地にある遺跡です。
手前左にあるのが木曽川、奥の山が恵那山で、濃尾平野から木曽路へ至る最後の大きな平地部に遺跡は位置します。
平成11年度から平成13年度調査発掘区全景
令和3年度調査発掘区(C17地点)全景
発掘状況
【平成11年度から平成13年度調査】
弥生時代中期から古墳時代にかけての川に囲まれた集落や水田、古代以降の水田と溝や川、中世の館(やかた)を中心とした集落・水田とそれを取りまく川などが見つかりました。水路の中には木組みを芯にした堤防や堰などの大がかりな施設が造られていました。たくさんの土器とともに木製の農具や祭祀具、そして建物の部材が出土しました。
川との戦い
木組みを基礎にして岸を固める護岸施設や、堤防・堰の跡が多く見つかりました。
土地を仕切る(白い砂の部分)
奈良時代には道をつくり、それを用いて土地を方形に仕切りました。これを条里制地割(じょうりせいじわり)といいます。
木簡が出土した溝
木に墨で文字を書いた木簡が出土しました。仏教法会の「仁王會(会:にんのうえ)」という文字が見えたものもあります。
網代の出土状況
檜(ひのき)で編んだ網代です。護岸施設の土盛りが崩れるのを防ぐために使われていました。
多数の杭
たくさん打ち込んである杭は堤防の芯として使われていました。ここだけで約4000本見つかりました。
網代出土状況
弥生時代から江戸時代までの集落跡や水田・流路跡が見つかりました。流路の中には、木組(きぐみ)を芯(しん)にした堤防(ていぼう)・堰(せき)・護岸施設(ごがんしせつ)が造られており、護岸施設の中には地滑り防止などのために、網代が設置されていました。
一辺約70mの区画をもつ鎌倉時代の館(やかた)が、見つかりました。区画内には、大型建物・井戸などがあります。
大足(おおあし)とよばれる、水田の土をならしたり肥料を踏みこむ下駄(げた)が、組み合わさった状態で見つかりました。
鎌倉時代の井戸の底に、曲物(まげもの)とよばれる容器がすえてありました。
【令和3年度調査】
弥生時代末期から近世にかけての遺構や遺物を確認しました。溝や川が多く見つかりました。
自然流路から出土した木製品の出土状況1
自然流路から出土した木製品の出土状況2
C17地点の自然流路からは、柱材、横架材、曲物底板等の大型木製品がまとまって出土しました。
自然流路から出土した須恵器の出土状況
C17地点の自然流路から完形に近いミニチュアの提瓶の周辺に、須恵器甕や横瓶の破片が散在していました。この周辺で祭祀が行われていた可能性があります。